R雨さんの稽古

今日は近所でR雨さんの稽古。

力の抜けたR雨さんをこちらは力をこめて押す、

R雨さんが力を抜く、

そうするとこちらははずされて転ぶ、というパターンなのだが、

そもそも相手が力を入れて向かってこなければ成り立たない

状況なんだよな。

状況そのものがなければ必要ないんだ。

誰かが攻撃してくることがなければ。

 

古の?武術を必要とした人たちは

誰かが攻撃してくる状況があたりまえだったから

それ必要だっただろうけれど

 

りきみの抜けた「状態」は、何のためにあるのだろう

今日Mきさんが、「力みを抜くのはわかったけど、もっと

千人切りみたいなことがやりたい人は、そこにたどりつくために

何をすればいいのか?」という質問をしてたけど、

そもそもそこを目指すって、りきんでないか?

 

私は今日、ひとびとが肩でつっぱるのを見てて、

肚で押し返そうとおもって臨んだら、

「脇がしまってる」と評された

 

そこでアレと思ったけど、

そもそも肩でつっぱろうが

脇をしめようが

R雨さんはに倒されまいとする心の姿勢には変わりがない

わけで

 

I美さんが「人の心がわからない人にならないか」と言ってた

けど、りきみを抜いて抜いてぬいていったら、

外界に働きかける意味はあるんだろうか?

甲野先生やR雨さんは、

外界に働きかける動機付けを、どのへんに持っているんだろう。

 

あの「押す必要がないのに押す」という矛盾した稽古を

続けていくうちに体がかわってくるというのは

どういうことなのか

 

まだ言語化できないが、今日なんだか、

ぽんぽこの中村さんと、R雨さんが通じ合うということが、

言語化できないが腑にはおちる気がした

 

私がR雨さんに押されて押し返してるのは、作物つくる

ために肥料をやる、のと同じ世界な気がした

 

しかし有機物が分解されて循環して適度な実りをもたらす

ためには(適度な実りをもたらさないと循環しない)

何のかかわりももたないわけにはいかないわけで

あの押し合いっこの中に

ちょうどよい融和みたいなものがあり得るのだろうか

 

それが直感でわかるようになったら

分をわきまえてちょうどよく生きていく

人になるのだろうか

そういうことなのだろうか

 

甲野先生はコロナ禍でマスクをした人に囲まれた子どもたちの

育ちを憂えているけれど

フラットにしていてひとの哀しみが自然にしみ込んでくる人は

よい

 

フラットにしていてひとの哀しみがしみこんでこない人間は

そういう種族ということでいいのだろうか